昭和43年7月10日  朝の御理解        【記入者:五徳】



 44節を頂きます。

 天地の親神様が、何時も絶えず、私共人間の上に、まぁ言うなら、人間総氏子の総助かりを願っておられるのです。ね、人間の助かりを願ってやまれんのが、天地の親神様のお心です。
 それで、これは信心があってもなかっても、んー、おんなじですけれども、そこで、えー、信心をさして頂く者、えー、そこのところを、ひとつ悟らしてもらう。ねぇ、神様が助けずにはおかんと、おー、思うておられ、または、それを言葉に表すように、えー言うて聞かすように、様々な実証実態を持って、えーお示しくださる。ですから、そこのところを分からしてもらう。そこに、えー、天地に道ありといったような、そのう言葉を、私共が実感として、天地に道ありと言うのは、天地にそういう助かって行けれる道があるといのである。天地の中に、ね。ですからそういう道を私共が体得しようと。分からして頂こうと。そこに、信心さして頂く者の、おー、願いがなからなきゃいけん。ね。
 これはね、信心があってもなかっても、そういう働きかけというのは、もう誰の上にもあって、これはいわゆる、信心がせんでも、世界中の氏子におかげがやってあると言ってある。おかげを受けておるということは事実ですね。と同時に、おかげを受けておるだけではなくて、また、おかげを世に受けさせようとする働き、より幸せにしようとする働きがあるんです。ね。
 しかしそこを、私共が悟らせて頂こうとするのが、あ-信心。そこで、今日御理解44節を頂くんですけれども、まぁ読んでみましょうね。
 『狐狸でさえ、神にまつられることを喜ぶというではないか。人は万物の霊長なれば、死したる後、神にまつられ、神になることを楽しみに信心せよ。』
 狐狸でさえ、神にまつられることを喜ぶというではないか。人は万物の霊長なれば、死したる後、神にまつられ、神になることを楽しみに信心せよ、と。こういう私共は願いがなからなければ、そういう願いがです、建てられるようにならなければ、だから、本当の、おー天地の道にありましても、ね、神様が助けよう助けようとなさっておられる働き、ね、神様が下さっておるおかげ、または、あー私共に、そういう、うー呼びかけてくださっておる、より助かってくれという、その神様の願いをです、私共が分からない。
 ね、そこで、私は信心をさして頂く者は段々、ねぇ、言うなら、頭の願い、体の訴え、ね、それを超越して、ね、心の叫び、その先に魂の安らぎがある。
 ね、頭の願い。皆さんが頭でいろいろ考えられるでしょう。ああやったから、こうやったらよかろうと。これは、頭の願い。私共は、体がうずくように、体が求めることがございます。痛い痒いがそうなんです。ね、まだ他にも様々あります。生理的にもあります。ねぇ。
 ですから、そういうような私共がね、頭の願い、心の訴えというようなものがね、段々超えて行けれる、超越して行けれる。ね。そこに、心の叫びがある。ここんところが、えぃ、ねぇ、神になるのを、神にまつられるのを、楽しみに信心するということになってくる、この辺。こっから。
 頭で考えちゃーおる。右になったらさぞよかろう、左になったらよかろうとこう思う。ね、だからこの間に、全然助かりはないのです。助かりというか、そのう、おー、魂の安らぎには繋がっていかないのです。ねぇ。
 もう十四、五年の、おー、御理解の中に、「欲しいとも 思わぬ雨だれの 音を聴く」という、う、覚えとられるでしょうか、ね。「欲しいとも 思わぬ雨だれの 音を聴く」という。今日のようなお湿りの日に、じーっとこう縁先に座って、瞑想しておる。もう痛いもなからなければ、痒いもない。ひもじいこともなからなければ、のどの渇くこともない。頭で願うことも、体で訴えることもない。
 ねぇ、そこには、ね、心の叫びすらもない。ね、そこに、魂の安らぎを感じる。ね。それが、うんならどういうことかと。ね、そこにいわゆる天地に道あり、それがわかる。天地の大道に、これは皆が天地の大道、天地の大道に出ておる、出てあるの人間は全部。いわゆるおかげが頂けれる場に、皆があるのぞ。
 けれども、天地の親神様がね、助けなけねばおけん、助けたいという願いをね、えー持って私共に働きかけて下さるということを知らない、悟らない。そこに人間の難儀があるとですよ。
 ね、例えばなら、これが私の、おー今の、ね、欲しいとも思わぬ雨だれの音を聞くと行ったような境地がです、ね、のどが渇くようになりゃ、もうちゃんと目の前に、神様がお水を持ってきてくださるんだ。お鍋がついてくりゃちゃんと食べ物を適当に下さるんだ。寒くなりゃ暖を下さり、冷たかれば涼を下さる。ね、涼、涼しいね。それを確信してあるからそれができるんだと、私は思う。
 ね、痛いもない、痒いもない。ほんとに、なーんにも願うことがない。天地の親神様がね、そういう働きかけをしてくださっておる、その働きかけを自分で頂けれるという確信が、根底になっとる。ね、そういう神様を信じきっておるところに、私はそういう境地が開けて来るわけです。
 皆さん、だからね、神になり、神にまつられということを楽しみに信心するということは、時折でも自分の心の中に、はぁ、心の中にこのような安らぎを頂いておると、このような、例えば、あー、ま混沌とした世相の中にです、ありながら、まぁいうなら、自分の周囲には我情我欲で、もう自分の思いを満たすためんなら、人の、例えば茶碗でも叩き落してからでもといったような、その、おー中にあってです、自分のその生き方というのが、ね、神様のこのようなご守護の中に、お守りの中に、しかも必要なものは、必要に応じて、頂けれるようなおかげの中にある自分という者を分からしてもらう時にです、そこには、頭の願いも、体の訴えもない。ね、心に思うことすらもなくなってくる。
 ね、私はそういうようなねぇ、あの教を目指すことだと、しんじんとは。そんために、なるほど天地には、こういういかさにゃおかん、助けにゃおかんという働きがねぇ、もうこの天地の中に充満しておる。それが神様のお心なんだということを、様々な体験を通して、分からして頂かんとね、そこが開けてこない。ね。
 今宵、信心があろうがなかろうが、神様の一応そういう働きかけがあるんだと。それをただ自分に気がつかないだけなんだと。私が申しますですね、だからそれを気づかせて頂くというところにね、信心の私修行が必要だとこう思うんですよ。
 えー、田主丸の、おー小野産婦人科の小野先生が、毎日お参りをしてまいりますね。もうこの人は、お参りをしてきて、別にお話を頂くわけでもない。もう参って来て、ゆっくりと拝むわけでもない。もうずーっと参って来ておいてから、もうずーっとこうお届けして、自分の言うことだけ言って、つーっと帰んなさるといったような方なんです。
 けれどもやはりですね、人の大事な生命を預かってくださるとですね、先生は、お医者さんというのは。だからそういうところに、あの神様の、また、小野先生に対する願いもあるのじゃなかろうかとこう思うんですね、人がたくさん助かって行くことのための、そういう大事な御用をしておられるのですから。
 あんたそげなこと言う、という、いうようなふうにあの人がご理解を頂かれたことがないですもんね。言わば放任してあるような感じ。それでなら小野先生としては、毎日参らなければおられんのであり、例えばなら、毎日のこの手術一つでも、ね、水を一つとられるでも、いちいちお取り次ぎを頂かなければね、水が取られないというぐらいに、やっぱりそういう神経を持っておられる。これはもうだから、夜も夜中もないです。も、もう夜中なんか電話です。割球の時にはもう電話です。
 これがほかの、さぁ商売のね、さぁ売った買ったといったようなことならば許されないかもしれんけどもね、ことやっぱそのひ、人命に関わることですから、神様がそれを心よう受けてくださるという感じですね、いつも。
 昨日も、3人手術がございましたのに、もうた、例えばですね、御神意を伺わずにね、例えば手術の順序なんかをいたしますと、非常に手間取ることがあるそうです。すからもう、必ずその、3人なら3人の手術があるときには、どの人を先に、どの人を真中に、どの人を最後にというようにですね、必ず御神意を伺うてから手術にかかられんですね。
 けどもやっぱり、3人の手術がございますが、3人の手じゅ、3人の患者の名前を書いて、どれを一番に手術したらいいだろうかという、(?おとひ)があったんでっすよ。とりあえず私は、それを見させて頂いて、御神意を伺いもしませんでしたが、こうこうこうさして頂いたらいいでしょう、と私が申したんです。
 と言うのはね、もうその、天地がね、いつーもあの、話し掛けておられるというものを感じたからです、私が。例えて言うとですね、そのう、おー、患者をなさる、五十の方達の名前をここに順序に書いてあるんです。
 一番はじめに、久保田初ねという方。次に長松二羽、一羽二羽の二羽、二羽と書いてあるですね。なん、変わった名前ですね。それから3番目に、梁瀬峰子という。これは、いくら素人だってすぐに分かるでしょうが。初ね、二羽、みわと、一、二、三て書いてある。
 ね、初は一番初めのことでしょ。二番目には、一羽二羽の二羽っち書いてある、漢字で。二羽さん。三番目には、峰子っちかいてある。だから、これは一、二、三よと。
 はぁそうですね、自分も、その、そげな順序、そげなつもりで書いたわけじゃなかけども、これは、場合によっちゃ真中が先、最後が先といったようなこともありますけれども、ね、昨日の場合、そういうように、そのこれは信心があろうがなかろうが、ね、信心が薄かろうが、薄うなかろうが、ホント言うたら、いつでも絶えず、神様はそういうね、自然の中にね、もう目にも見えない、聞こえない中にです、そういう働きかけて、もういつーも起きてるとですよ、皆さん。
 ね、もう天地が私共に呼びかけてくださる声というのは、もう、絶えずここに轟々とあってるとですよ。それが、あまりにも多きな声でやるから、かえって聞き取れないでおるだけなんです。我情我欲が邪魔しとるだけなんです。
 ね、例えばこういう例から言うてもです。神様が、絶えず人間氏子のうえに、より助かってもらいたい、より助けたいというような、神の願いの声を聞くように思うのです。ね。
 そこで皆さんの、例えばその願いのね、えー四代の焦点というか、程度というか、どの辺のところが、皆さんの願いになっておるだろうか。ね、頭の願いじゃなかろうか、これが一番始め、ね、頭で右にあったがよか、左がよか、あげんあったらよかばってん、というような願いは、頭の願いなんです。
 ね、これも、体の訴えもんまり変わらない、ねぇ。すこーし進んでおる感じ。人間じゃけー、こんぐらいのこつはもう当たり前と思うておる人があるかもしれんのですけれどもね。
 ね、体にね、体で訴えたり、ね、(?おんなかでもせく)時はそげんでしょ。ね。のどが渇きゃ、コップに一杯の水でも欲しいと思うでしょう。ね、ところがね、それをね、例えば、これがもう渇いてきた時にはです、ここにはちゃーんと、そこに、冷たい、夏ならば冷たいお水がね、冬ならば暖かい飲み物がね、ちゃーんとここに与えられるようになってるんですよ、皆さん。
 神様はそんなに、不行き届きの方じゃないんです。ところがただ、自分たちが頂けんだけの話なんです。ね、ですからそこんところが分からして頂くから、ね、欲しいとも思わぬ、ほんと自然の、神様の声を、こう耳を澄まして聞き入っておるというのが、今の、ね、雨だれの音を聞くというようなことなんです。
 さぁこれ、今はひもじいことはなかばってん、腹が減った時になんか食べるもんはあるじゃろうか。ね、今はどうもからだがないか、ね、だから人間の生身を持っておるから、いつそげなんことがあるじゃー分からんけん、金をちーと貯めとかなければ、さぁ医者代もない、薬代もないようじゃでけんから、これじゃじっとしてられませんよね、皆さん。
 ねぇ、先のことを知らん。先のことを苦労する、取り越し苦労をする。なら、だから、まずね信心さして頂いた者は、取り越し苦労をせんで済むところぐらいまではいきたい。先の方ばこげんして決めとかなければ、先が思いやられる。今そげん先のことば決めとくことがいろうか。ねぇ。だからそこんところがね、超越できれる、そこんところが超えて行けれる、信心を目指さなきゃいけん。
 ね、そして、心の叫びなんです。これはどういうことかというと、ね、物じゃない、金じゃない、ね、まず自分の心が真実救われなければ、助からなければ、人間の幸せはありえない、これがさっと出て来るんですね、信心によって。
 頭で考えることでもなからなければ、肉体でい、お、感じておることではない。例え(?よし)、なら肉体が求める、ん、体が求めるようなことであっても、もとでもあってもです、ね、どういう、なら苦しい中にあってもということ。ね、頭が割れるように、かん、ね、晩も眠れんようにある時でも、ね、体にどういう痛い痒いを感ずる時でも、そのなかにですら、心の助かりというものはあるのだと。
 ね、そこには、いわゆる神様の、いわゆるご守護というかね、神様の御神徳の中に生かされてある私、それで、頭が痛いのであり、頭が悪いというようにですね、神様のご守護の中にある私ということが分かってくる。そこに、いよいよ心の助かりというものを求める。そこから初めて、改まりがあり、いよいよ本心の玉を磨かせて頂くということにです、気づかせて頂くのです。いわゆる、神にまつられ、神になっていく稽古ができてくるのです。ね。
 例えば、今日は御祈念中に、どっかこの上のあたりが、トントントントン、こう雨漏りの音がする。こんな大雨になります、やはりこれだけ広いから、廊下が漏ってるんですね。普通は漏らないようなところが漏ってる。だから下の方へ、えー、まぁ、敷物をね、するわけです。どんぶりなっと持って来い、たらいを持って来いということになってくるわけです。まぁそれで、一応は、ふさ、塞がれることはできます、ね。そこを(?ひとぬく)ことができます。
 私どもの信心がですね、このう、頭やら体やらでですね、あ、その、願ったり、または訴えたりしておる時には、ちょうど雨漏りがするのを応急処置をして、こう雨漏りを防ぐだけのようなものです。
 ね。だから、結局はまた、降るたんびに、さぁどんぶり持ってこい、たらい持ってこいと言わなきゃならん。ね、ひがつかんでもおると、例えばくだらかしてしまわなならんということになって来る。うん。
 そこでね、私はあの、例えばそういう、ただならん、あ、は、腹がすきますから、頭が痛いから、それだけを治してもらっただけではね、駄目だというのです。そういう難儀の根というか、元というものを探らしてもらうのぞ信心とは。
 ね、ははー、ここがこげんなっとるけん、こっから漏っとるでーということが分からにゃいかんというのである。
 ね、そこを訪ねる。皆さんホントにね、この辺のところをいっちょホントに分からんとですね、結局頭と体とだけの訴えが信心のようになってくるんですよ。そして腹の減った時には御神米があるけんで、ね。頭が痛か時には、あー御神紙を貼らせて頂くけんで、だけじゃいかん、ね。
 ホントの心の中に、ね、お米を買いに行ったら、確かに一斗のお米を買うてきた。ところがお家で計ってみたところが八升しかなかった。これは向こうの米屋さんが間違えとりゃせんじゃろうか。どうしてじゃろうか。と、例えば言うておらずにです、その私は、その、斗米袋を斗米袋をね、いっぺん改めてみる必要がある。
 なるほど、ここにこげん埃があったもん、ここにこげん破れとるもんじゃから、ずーっとだ、だ、ちーとずつこぼれてきとる、途中で。それで、一斗んとが、八升になっとる、九升になっとるということになるわけです。
 ねぇ、その、例えば難儀なら難儀、困っとなら困ったというそこんtころだけを見ておる。どうしてこういうことんなったじゃろうか。確かに一斗、一斗のはずじゃったが、どうして八升になったじゃろうか。そんなこっじゃなかったが、そげなはずじゃなかったが、こういう結果になっておる。
 その結果、そこんところを皆さんにです、そこまでそういう結果にならなければならなかったことを、まず、訪ねなければいけない。自分の心の破れておることやらほこれておることは棚に上げて、そして、米屋さんが間違えとだんござらんじゃろうかといったようなことを言う。
 うん、これでは、いつまで経っても、いわゆる神になる、神に祭られるといったようなことにはなってこんのです。ねぇ。
 なるほど、ここにこういう破れがあったもん、そこが、ふせてふせてふせ続けられていく。ねぇ。私は信心はそこんところにね、いつも焦点を置いて、信心を、例えば難儀の実態を見極めて、難儀から助けて頂きたいだけではなくて、その難儀の実態、大本というものを探らしてもらって、おかげを受けていかなければならんのです。ねぇ。
 そこから体験させられるもの、ね、神様のお働きというかね、神様がホントに人間氏子を助けねばおかん、救わねばおかんという、そういう働きかけが、いっつも絶えずあっているんだと。
 ね、いわゆる天地に道ありというのは、そういう助かりの道がここにある。みよそにあるのではない、現在そこにある、それを自分が自覚するかしないか。神様は、絶えずこういうような働きかけを下さっておる。それを、自分の我情我欲が、それを分からせないだけでも、耳を通んぼにしておる、目をめくらにしてしまっておる。
 ね、そこで信心さして頂く者は、肉眼をおいて心眼を開けよと仰るのはそれのこと。そこのところの、私は、体験が積み重ねていくうちにです、ね、いよいよ魂の安らぎが約束されるのです。
 ここに、なるほど、このまま行きゃ神になれれるんだ、神に祭られるんだという、言わば、何と申しましょうかね、死生感とでも申しましょう、じせい感だの死生感ですかねぇ。があるわけです。ね。
 「狐狸でさえ、神にまつられることを喜ぶというではないか。人は万物の霊長なれば」まず、人間は万物の霊長なればと言う、万物の霊長としての自覚ができにゃいけません。人間の面かぶっとるから霊長じゃない。ね。例え蛙やら、蛇でも、降るってなことが分かるではないか。人間が万物の霊長という、その、ねぇ、霊長ならば、降る照るぐらいのことが分からなきゃならんはずだ。冷血動物の蛇やら蛙やらですら分かる。
 してみると、人間はそういう冷血動物動物より、以下のように汚れ果て、変わり果てておるんだ。そこに、信心によって、ね、元来神の子としての魂が清められて、ね、霊長としての値打ちというものを発揮することができるようになる。
 ね、ですからまずその、万物の霊長である、霊長の資格があるか、やっぱり自分で問うてみなきゃでけん。ね、自分は人間の面かぶっとるだけ、心は、それとは反対の、いわば、ね、にんべん(意:人間)、獣心、獣心ということ、人間の面しとるだけ、心は獣のごたる。これでは、私は、神様のほんとの助かりを受けることができん。
 いかに神様が手を差し伸べてくださっても、それにすがることができる。ね、まず改まらなければ、まずそこに気づかしてもらわなければ、ね。そこから私は、信心のいわゆる道の教えというのがあるわけです。
 道、教えの大行の中に、ほんと人間の生き道を教えておられるように、そこで私は最近、いつも申しておりますように、ね、私どもはだから、教祖様の生きられ方というものがです、または教祖様が教えられたことをです、身を持ってそれを体得していき、行じていく以外にないのだ。
 どの御教えひとつでも、ね、人間ができないというようなことがないということ。教祖様ご自身が、ね、木の股から生まれなさった方でもなからなければ、ね、特別の資格を持って生まれなさった方ではない。普通のお百姓さんであり、普通の、やはり凡人にすぎられなかった。
 ね、その方が、実意丁寧神信心によって、天地に貫くもの、真一筋を貫かれて開かれた道なのですから、ね、誰でもその真似ができるのです。そりゃとてもでけんといったようなことがないということが、金光教の信心の、あーと、あのー、特別に有り難いところだと思いますね。
 ただ教祖様が教えてくださったこと、また、ご自分が踏んでこられたことを、話にして残しておくと仰る。その話を聞かしてもろうて、ね、教祖様の生きられ方というものを身につけていく以外にないと、最近私は思うのです。
 ね、いわゆる実意丁寧神信心がなされなければならないということ。ね、それにはお互い早く、ひとつね、頭の願い、体の訴えから、ひとつそこんところを乗り越えて、ね、いよいよね、心のね、ほんとに自分の心が助かりたいという願い。
 ね、助かりたいためには、こう、こういう心じゃ助かれないのだと。そこに、神の働きを生き生きこれに、自分の心に感じ、おかげの体験というものが生まれてくるのぞ。ね、そこにいよいよ、魂が安らいでくる。はぁ、これならいつお国替えを頂いても、自分は極楽に行けれるぞという安心が生まれてくる。
 ね、そういうひとつの信心の段階ですけれども、段階をおうての信心、そこに私は、だから結局は、神に祭られ、か、神になることを楽しみの、そういうことが楽しみの信心になってこなければならないということになるのです。
 ね、頭の願いだけが成就する。心で思うておることだけが、ね、例えば、その訴えを聞いて頂くというだけ信心から、ね、私ども自体が助かっていけれる(?ひょうじゅ)そこを、私は、ほんと、雨漏りのことやら、いわゆる米を買いに行ってからの話やら、お、お礼を持っていたしました。ねぇ。
 そこが、例えば、根本的なところに追求される、ね。雨漏りの、いわゆる大本を突き止める。米が少なくなっておった原因が、ね、米屋さんでもなからなければ、どうしたということもない。それがただ破れておっただけなんだ。だから、それが修繕されたところから、たところに、ね、私はおかげを漏らさんですむおかげ、神様のおかげというのはもう限りがなく、それこそ降るようにあっておる。その降るようなおかげを頂きとめれる、ね、内容を頂きたい、とこう言うのです。
 どうぞ。